馬鹿の独り言

物忘れの酷い俺のためだけのブログ

俺とフランス革命

イノサン」読んだから。

ここ最近、フランス革命ブームが来ている。

俺は今まで、ローマや第一次大戦くらいの、古代や近代の歴史については多少齧ってきた。しかし、中世については全くと言っていいほど知らない。そんな時に「イノサン」に出会った。主人公であるシャルル=アンリ・サンソンについては、スティールボールランジャイロ・ツェペリのモデルであるということで、名前くらいは知っていた。俺はジャイロが大好きだったこともあって、良い機会だと思いフランス革命についていっちょ噛り付いてみるかと思った次第である。

何冊か本を読んだところ、面白い面白い。こんなに気分が昂ったのは、ハンニバル辺りのローマを学んでいた時以来だ。

そんな想いも高じて、この記事を書いている今日(2016/11/27)は、六本木ヒルズで催されている「マリー・アントワネット展」に行ってきた。

www.ntv.co.jp

本で見覚えのある絵画やマリー・アントワネットがギロチンに連れてかれる時に脱げた靴などが見られたのは、非常に感慨深いものがあった。写真が撮れるエリアも用意されていて、全体的に満足な展示だった。

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さて、フランス革命は功罪両面ある大きな歴史の畝りである。ではフランス革命の主役は誰だったのかといえば、人に応じて意見が分かれるだろう。

マリー・アントワネット

ルイ16世

シャルル=アンリ・サンソン

ロベスピエール

ブルジョワ

貧民

色々とあると思う。

しかし、やはり俺が一番の主役だと思うのはコイツだ。

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「ギヨたんguillotine」などという萌え気分高まる名前のコイツは、出生からして完全に主人公枠だ。俺達の良く知る「ギロチン」とは英語読みであり、guillotineはフランス語読みでは「ギヨティーヌ」という。ギヨタンという名前だけ出して大して貢献していない医師の名前から取られたらしい。俺の気分上、ここでは「ギヨたん」とする。

ギヨたんは、当時のフランス国王であるルイ16世、死刑執行人のシャルル=アンリ・サンソン、外科医のアントワーヌ・ルイの共同制作にて産み出された。 王族の血を引き、死神に育てられ、人々の自由と平等のために造られたのだ。

どうやら革命前のフランスでは、死刑は考えるまでもなく当然必要なものと捉えられていたようだ(現在のフランスでは、死刑制度は廃止されている)。ただし死刑執行の方法は貴族と平民で差別されており、それを一元化すべく、最も苦痛が少なくお手軽に執行できる死刑が模索された結果、ギヨたんが産まれた。つまり、ギヨたんは当初、人道的な目的で産み出されたのである。

革命前は 、同じ罪を犯して死刑の判決を受けても 、貴族なら斬首刑 、一般庶民なら絞首刑というふうに 、身分によって処刑方法が違っていた 。われわれ日本人にはピンとこないのだが 、斬首はフランス人にとっては高貴な処刑方法なのである 。これは 「人間の平等 」の原則に反する 、身分の如何を問わず処刑方法は同一でなければならないという議論が 、ギロチンが誕生するそもそものきっかけだった 。

物語 フランス革命―バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで (中公新書)より引用

ギロチンというと世間では恐ろしいイメージを持たれているものの、その産まれは尊いものだった。どこぞの新興ユダヤのアイツみたいだ。しかしギロチンが無ければ、フランス革命があんなにも血を流すこともなかった。ギロチンは、自由と平等の理想から産まれた。しかし結果として、産みの親であるルイ16世を殺し、死刑執行人サンソンを絶望に突き落とし、その後もあまりに多くの人間を、実にあっさりと簡潔に殺してしまった。

フランス革命を考える上で避けられないのは、やはり死刑制度をどう考えるかだと思う。死刑制度が必要か否かについては、古今東西あまりにも多くの人が議論の対象としてきた。ここで俺も、自分の考えを纏めておこうと思う。

俺は今のところ、死刑制度は必要だと思っている。

第一に、死ぬのは怖い。俺は死刑になるような犯罪をしたことがないので死刑囚の気持ちはわからないけど、死ぬのが怖いのはわかる。犯罪をすると死刑になる可能性があるという事実が頭にチラつくだけでも、犯罪をしようという気持ちにブレーキがかかるんじゃなかろうかと思う。

第二に、冤罪や誤審の可能性だ。これに関しては、確かに悲惨という他無い。ただこれは、局所的には司法や警察の問題だ。俺が冤罪に巻き込まれて死刑宣告でもされたらと思うと確かに怖いけど、だったらどうだというのか。死刑が無くなっても、前科者になってしまえば、社会的には死刑とそう変わらないだろう。終身刑でも同じ事だ。冤罪や誤審による悲惨と死刑とは、また別の問題ではないのかと思う。

第三に、死刑が無くなるとすると、最高は終身刑ということになる。囚人を養うにも税金が必要だ。囚人の生活費、監獄の運営費などなど。こんなものに税金を払うくらいなら、サクッと死刑にしてくれた方が随分と安上がりだ。最高が終身刑になるということは「最悪な犯罪をやらかして終身刑になれば、死ぬまで国が養ってくれる」という誘因が働きかねない。自分で言ってて性悪説だなとは思うけど。

ニュースを見ていると、何年かに一度は「コイツは死刑にした方が良いんじゃないか」というような悲惨な事件を目にする。どんな事件を頭に浮かべるかは人それぞれだけど、一度でもそう思ったことがあるなら、死刑制度はある程度必要だと思っている証拠だ。フランス革命を見ていると、死刑制度は廃止した方が良いとほぼ確信的にそう思ってしまう気分になる。死刑が必要か否かというのは人類の永遠のテーマの1つだと思うし、これを機にもう少しじっくり考えてみたい。

フランス革命―歴史における劇薬 (岩波ジュニア新書)

フランス革命―歴史における劇薬 (岩波ジュニア新書)

 

自由と平等を掲げるフランス革命だが、現在の我々の感覚からすれば「フランス革命なんて嘘っぱちだ。ブルジョワが貴族の特権を崩して金儲けがしたかっただけだ」という意見も出てくるだろう。フランス革命での人権宣言において、自由や平等を持つと規定されたのは白人男性だけだったし、どの階級に属する人民を人権宣言で保証するのかについては、かなり口汚くすったもんだしたからだ。王族を含み余りにも多くの人を殺しすぎたフランス革命が成功だったか失敗だったかでいえば、失敗だったと俺は思う。フランス革命の直後にはナポレオンが帝国を築いているし、その後も王政復古とかしちゃっている。アホかいなと思うけどしかし、フランス革命を契機に我々人民の頭に自由と平等の観念が根付き、その延長線上に俺たちの今の生活がある。そう考えれば、決して無意味ではなかったんだろう。

自由と平等を謳歌し、静かな夜に風呂上がりの炭酸水を飲みつつブログが書ける。

そう、iPadならね。

↓俺の御用達。他におススメがあったら情報求む

辨野義己/大便通

大便通 知っているようで知らない大腸・便・腸内細菌 (幻冬舎新書)

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最近、うんちの話をするようになった。

どうしてかという理由は言えないものの、うんちだ。1日5回くらいは言ってる気がする。そこで思った。

俺は、うんちのことを何も知らないじゃないか。

 

本の結論は、この一言だ。

「ヨーグルト食べよう」

構成は非常にわかりやすい。

まず、我々の腸はどのようなものなのかを説明する。次にどんな病気が懸念されるかを示し、最後にその予防策を述べる。その予防策として提示されるのが、ヨーグルトだ。

俺にとって、ヨーグルトは1つの関門だ。俺は昔から腹が弱い。ヨーグルトは主に朝食として食べられるものだと思うけど、俺は朝にヨーグルトなどの乳製品を食べるとほぼ100%腹を壊す。哀しい。

この本を読んでからというもの、トイレに行くとうんちの様子をチェックするようになった。

実家を出てからはとりあえず毎日、野菜は欠かさず食べるようにしている。そのせいか最近では、毎日1〜2回くらいはうんちが出るようになった。実家にいた頃は、うんちの頻度にはバラつきがあった。主な原因は、飲み会が減ったことだ。実家暮らしの社会人なんて、金が余って仕方がない。毎晩のように飲みに行っていたし、ランチも充実していた。それが今や、昼はおにぎり2つで夜は自炊だ。それで毎日野菜は欠かさない。そりゃ腸の調子も良くなるってもんだ。

うんちがちゃんと健康的に出るようになったのは良い。しかし、どう良くなっているのかはわからなかった。それがこの本を参考にすることによって、自分の腸の状態を客観的に分析することができるようになった。これは大きな違いである。

俺は、その時出したうんちを見て

「このタイプのうんちが出たのは、恐らく昨日アレを食べたからだ。でも異常な色や硬さや匂いはしていないので、現状は問題無いと思われる。うんちが出るサイクルも標準的だし、便秘などの心配は全く無いだろう」

などといった推察ができるようになった。うんちについてはこの本を1冊読んだだけなので、素人に毛も生えていない程度でしかない。それでも、自分の健康状態に何らかの客観性を自分で持たせることができるというのは、日々を過ごす上で安心感が全く違う。俺のようなサラリーマンにとって、健康は死活問題だ。日々のチェックは絶対に欠かせない。

俺は野菜はよく食べるけど、海藻も同じくらい好きだ。サラダを買ってくる時はほぼ必ず海藻サラダだし、今もおしゃぶり昆布を食べながらこの記事を書いている。本ではあまりフォーカスされなかったものの、昆布も腸内環境を整える上では非常に効果的らしい。

うんちを学ぶということは、腸を学ぶということだった。これからも毎日元気にうんちを出していこうと思う。

仕事を中断する口実にもなるしな(小声)

【雑記】ペルソナ5をクリアしたらうつうつした話

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persona5.jp

理性は情念の奴隷であり 、またそれだけのものであるべきであって 、理性は情念に仕え 、従う以外になんらかの役目をあえて望むことはけっしてできないのである。

人性論 (中公クラシックス)より引用

 

先日、ペルソナ5をクリアした。

いやー、めっちゃおもろかったっす。1週目の記録は4股でした。2週目は本命の春ちゃん一筋でいくつもりなので、あんな酷い修羅場にはもう陥りません。やっぱ2次元って良いよなぁ。俺は、おっぱいデカい美少女が大好きだ。

今作は「大衆の認知」がテーマだった。ペルソナ4よりも話が大きくなってて、俺も怪盗やりたくなった。

今作のペルソナは「反逆の意志」の表象だったけど、じゃあ何に反逆すんのっていうと、ザックリ言えば「権力」だ。双葉や新島冴は特殊な事例として

鴨志田、班目、金城、獅童

の4人はいわゆる「権力者」で、そいつらに人生を食い荒らされそうになってる若者が反逆をするというのが今作の大筋だった。しかし双葉の件から徐々に怪盗が世間に認知されていった結果、怪盗団は、ついには大衆そのものを相手にオタカラを盗むことになる。

そもそも考えてみれば、権力というのは大衆の迎合が無ければ存在し得ない。権力者本人の実績や人格は多種多様でも、その権力者を承認する大衆の存在があってこその権力というのは、どんな場合でも共通だ。それに、大衆には権力に服従し、考えることを止めて楽になりたがる性質がある。

自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版

 

今作で登場した4人の権力者も、大衆の迎合に支えられていたという原理を考えれば、最初からラスボスは大衆そのものなのではないかと推察するのは容易い。容易いと言いつつ、俺は何も考えずにプレイしてたけどな。

こんな下地があるからこそ、ラスボスが大衆の願いを叶える「聖杯」というのはストーリーとして非常に良い着地点だったと思うし、聖杯に至る道中を天使が守っているのも良い設定だった。神や天使といった神聖とされる存在も、大衆の信仰が無ければ存在し得ないという点については権力と同じ。何より、女神転生シリーズの頃から「神」とか「悪魔」を扱ってきたペルソナシリーズにおいて、こんな相応しいラスボスは中々いないんじゃなかろうか。そういった意味で、今作はペルソナシリーズの持つ特徴によく合致した、ペルソナらしい作品だったと俺は思っている。

それにしても、イゴールについてはマジでビビった。中の人がお亡くなりになられたという事情を逆手に取られて、完全に油断していた。テンション上がりましたよあれは。

さて

「大衆の認知」とか「群集心理」とか、そういうので最近似たような話があったなと思って、思い出した。

ガッチャマンクラウズだ。

www.ntv.co.jp

ガッチャマンクラウズのテーマの1つに「世の中の見方」があった。1期は、周囲を見ずに自分の世界に引き篭もって世の中クソだと思っている人間を、ベルクカッツェが煽って破滅に導くという物語だった。人間はつい外面にばかり目が行ってしまったり、自分の考えに凝り固まって素直に物事が認識できなくなりがちである。余裕が無い奴はダメだ。この辺りは、最初の方から徹底して示されている。特に印象的だったのは、はじめちゃんのコラージュコミュニティのオフ会で、市長や消防署長が紹介されたシーンだ。

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市長は「清水伸男」、消防署長は「桑原隆男」という名前がある。しかしどうだろう、俺はこの記事を書く瞬間まで、この2人のことは「市長」「消防署長」と記憶していた。ペルソナ5に擬えると、「市長」というペルソナの中に「清水伸男」というシャドウがいるわけだ。はじめちゃんは最初からシャドウに目を向けていたけど、清音はペルソナの方に目を向けてしまっている。ペルソナ5では、「日本を導く俊英の政治家」というペルソナの中に「獅童正義」というシャドウがいた。世間一般の人はどちらに目が行きがちかといえば、圧倒的にペルソナの方だろう。身近な例として、自分の会社の重役とかゼミの教授とかを、ペルソナを無視してその人間性を見抜くことができるかって話だ。けっこう難しいと思う。そういう点で、はじめちゃんは正に天才だ。ベルクカッツェに対しても同じ態度で接するし、それが1期の終着点になる。

2期において、つばさちゃんが バードゴーできなかった理由も想像できる。

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「変身する」というのは、すごくザックリ言えば「主体性を発揮する」ということだ。2期でのつばさちゃんは、世間の空気に流されてゲルサドラを盲信し、主体性を発揮することができなかった。しかし、爺ちゃんに戦争の話とかを聞いて不器用ながらも自分の意見を形成するようになってからというもの、上手くバードゴーできるようになった。

大衆が世間を正しく認知するようになるのは、怪盗団やガッチャマンが奮闘した影響が大きい。はじめちゃんが一芝居打ったり怪盗団がオタカラを盗ったりした結果、はじめて大衆は自分達の空気が間違っていることに気付く。

では大衆は常に愚かなのかといえば、そうとも限らないだろうというのがガッチャマンクラウズのメッセージだった。ペルソナ5では、大衆の認知であるメメントスは醜く歪んでいた。ガッチャマンクラウズにおいても、大衆は常に愚かな存在として描かれる。オルテガによると、大衆とは以下のように定義されるらしい。

大衆とは 、善い意味でも悪い意味でも 、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず 、自分は 「すべての人 」と同じであると感じ 、そのことに苦痛を覚えるどころか 、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである 。

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)より引用

この定義は、いわば「心理的大衆」とでも言う状態である。つまり物理的に大衆である必要は無く、このような心理のことを指して「大衆」と述べている。

他人と同一であることに喜びを見出すという気持ちは、多かれ少なかれ誰にでもあるだろう。程度の問題だとは思うけど、他人と同一であることに喜びを感じるというのは、突出したくないという気持ちとセットだ。単に現在を楽しむためなら、そういう気持ちはとても大切だと思う。しかし何か打破すべき現状に立ち向かうためには、同一であることは最悪と言っていい。

大衆が力を発揮して驚くべき成果を上げる事例というのは、確かにある。いわゆる「集合知」といわれる分野の研究は、少し前にブームだった。

群衆の智慧 (角川EPUB選書)

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しかし、集合知が有効なのは、非常に限定的な条件が揃った時のみだとされている。 ガッチャマンクラウズでは、はじめちゃんがマジに命賭けた結果、ようやく大衆はゲルサドラへの盲信から離れることができた。ペルソナ5では怪盗団に乗っかるだけのクソみたいな大衆しか描かれなかったけどな。つまり結局のところ、個人がそれぞれ主体性を発揮、とまでは言わずとも、せめて自分の考えを形成できる程度には主体的に生きることが求められるようだ。これはどんな条件でも変わらない原則だと思う。

どっちにしろ俺は、こんなことをくどくどと考えている時点で、大衆には属さないのかもしれない。

うつうつしてる場合じゃないです。

 

春ちゃんが素敵すぎて俺もキモいって言われたくなりました

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