馬鹿の独り言

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トレヴァー・ノートン/世にも奇妙な人体実験の歴史

世にも奇妙な人体実験の歴史

世にも奇妙な人体実験の歴史

 

 

マッドサイエンティスト

と聞くと、多くの人が一番最初に思い浮かべるのは「フランケンシュタイン」だと思う。

フランケンシュタイン (新潮文庫)

フランケンシュタイン (新潮文庫)

 

神の領域を侵した人間の苦悩と、徐々に人間の心を獲得していく醜い怪物の交流を描いたハートフルヒューマンドラマである。

あれは、墓場から掘り起こした死体を主な材料としていた。フランケンシュタインの書かれた18世紀のイギリスでは、医学実験のために墓場から新鮮な死体を盗掘することが盛んだった。当時の読者には、墓場の傍で人体実験に励むフランケンシュタインの姿は、非常にリアリティのある情景だったんじゃなかろうか。

そもそもマッドサイエンティストとは、狂気に駆られて人間の倫理を外れた実験を行う変態を指す言葉だ。「フランケンシュタイン」の主人公であるヴィクター・フランケンシュタインは、正にこの類である(もっとも、ヴィクターはその狂気から醒めてしまうけども)。この本に出てくる人体実験を行うマッドサイエンティスト達も、人間を実験台として普通はやらないような変態行為を生涯繰り返した。

梅毒と淋病に同時に罹ってみる

深海と成層圏のどっちにも行って臨死体験してみる

一酸化炭素中毒になってみる

読んでいる途中で思わず顔を顰めることも少なくなかった。

俺達が思い浮かべるマッドサイエンティストというと、何やら怪しげな実験をして世間に迷惑をかける奴らというイメージがある。しかし、この本に出てきた奴らは違った。確かに彼らは紛う事無きマッドサイエンティストだ。やってることは狂気の沙汰だし、想像するだけで吐き気がするようなことばかりやっている。

ファースは嘔吐物をとろ火で煮てその蒸気を吸入した。吐き気のためについに我慢できなくなるまで、数時間にわたって吸入しつづけたのである。患者の嘔吐物を犬に注射してみたところ、その犬はわずか数分で死んでしまった。にもかかわらず、彼は自分の血管に嘔吐物を注射し、両腕を深く切開してその傷口にも注入した。体に患者の血液、汗、尿を塗りつけ、患者の唾液、血液、嘔吐物を飲んだ。

世にも奇妙な人体実験の歴史より引用

しかし、この本に出てくる奴らの殆どは、我々のイメージとはある一点で異なっている。それは、実験台を自分自身にするということだ。

戦争で捕まえてきた捕虜だとか死体を実験台にするというのなら、まだ気持ちはわかる。でもいったいどんな人生を送ったら、自分で1時間以上も過呼吸を繰り返して二酸化炭素を体から出し切ることで、痙攣の世界記録を打ち立てようなどと思うのか。

この本に出てくる人物達の中で、現在まで一般に広く知られている人物は非常に少ない。俺が知っていたのは

エドワード・ジェンナー

キュリー夫妻

ジョン・ハンター

バリー・マーシャル

くらいなものだった。しかし、これらの人物がほんの一部に過ぎないほどに、この本では多くの偉大な自己実験者が紹介されている。彼らの多くはゲロを煮詰めて飲んでみたり大西洋をゴムボートだけで渡ってみたり人体が耐えられるGの限界に挑戦しようなどという、極めて頭のおかしい奴等だ。偶に死んだりする。彼らをそんな行動に駆り立てたものはなんだったのか、俺にはわからない。彼らは、人類に色褪せることのない貢献を果たした偉大な人物達だ。自らの労苦を厭わず社会に貢献する。そういう人物こそ、世間一般では大いに賞賛されている。そんな先駆者達のおかげで我々の日々の生活が成り立っているという事実を見れば、当然の賞賛だろう。

ただその一方で、俺は絶対にそんな風にはなれないと思う。俺は疲れるのは嫌だしめんどくさいのは嫌だし、できるだけベッドでゴロゴロしていたい。なにより、そんな危険なことをして俺の身に何かあったら、俺が支えている人達や俺を心配してくれている人達の気持ちはどうなるというのか。そう考えると、自己実験などする気には到底なれない。まぁ、俺が死んだ後の死体くらいなら好きにしてくれていい。実際この本でも、新婚2週間で事故死して奥さんも後追い自殺した科学者の話が出てくる。そういうリスクを一度でも認識してしまうと、俺はこんな風には生きられない俗物だなと思う。

要するにあれだ。頭おかしいんじゃないのかコイツら? 

「言の葉の庭」を観たり読んだりした話

 

 

俺は、新海誠恐怖症だった。

秒速5センチメートル」というクソ映画を観て深く傷付いてからというもの、新海誠作品を避けていた。しかし、以前「君の名は。」を観たことによってそのトラウマは随分と和らいだ。そこで「そういやまだ観てねーな」と思ったので観てみた。

新海誠作品は、考えたら負けだ。感じるんだ。

そもそもおかしいじゃないか。高校に入ってから日が浅いとはいえ、自分の学校の若い女性教師がそんな酷い事態に陥っていたら、全く知らないのは有り得ないだろ。ぼっち度高めとはいえ友達が当然のように知っていたのに、ご都合主義にも程があんだろ。それに15のガキがあんな綺麗なお姉さんに擦り寄られて「惹かれていく…」なんて生易しい感情で終わるわけねーだろインポなのか?ホモなのか?

なんつーか、意識高い系な雰囲気が伝わってきた。この作品を観た後だと「君の名は。」が如何に大衆向けに作られたマイルドな作品なのかということがよくわかる。リアルに見せようとしているけれど、登場人物達にリアリティが全く無かった。凝った風景を描くために仕方なくキャラクターを置いただけのような印象を受けた。

舞台となった新宿御苑には、何度か行ったことがある。東屋もよく知ってる。新宿御苑は、確かに良いところだと思う。

全体的には、この程度の感想しか浮かばないアニメだった。あぁーはいはい絵が綺麗ねぇ、くらいなもんだ。つまり、そこまで面白くはなかった。

ここまでが映画だけの感想。

俺はその後、小説の方も読んだ。Amazonのセールで300円くらいになってたから、ちょっくら読んでみるかと思ったのだ。

小説の方は、映画よりも格段に良かった。映画を作ってから新海誠が自分自身でノベライズしたらしいけど、映画よりも描写が大きくて、登場人物がちゃんと人物として成立しているような気がした。映画では、雪野先生はなんか去り際に短歌口遊むイタい女だったし、孝雄は靴オタクのインポだった。小説では映像が無い分、心理描写などが非常に充実していたので、俺でも理解することができた。

まず、時間軸が大幅に拡張されている。始点は母さんの若い頃から始まり、終点は本編の5年後まである。メインはその中でも映画本編の時間で綴られるものの、それだけ時間に幅を持たせているだけあって、登場人物の心理描写に余裕がある。そしてあとがきにも書いてあったことだが、語り手を映画よりも倍以上に増やしている。映画ではモブキャラに近かったような奴らがどういう背景を持っているのかを知る事ができたので、映画の受け取り方も、小説を読む前と後では全く違ったものになると思う。特に、高雄の兄貴である翔太や雪野先生を退職に追い込んだ相澤祥子とかは、小説を読まないと、ストーリーに波紋を広げるためだけに配置された無粋なキャラクターでしかない。

言の葉の庭」という作品を総合的に判断する上で、小説版は絶対に欠かせないだろう。映画だけでは情報が乏しすぎて、ただの意識高い系で終わってしまう。従って俺としては、まず小説を読んでから映画を見るべきだと判断する。

とはいえ、こんなやり方は卑怯なのではないかと思わなくもない。映画の方は、つまらない作品だと俺は思った。お得意の、絵が綺麗なだけで中身の無いアニメだった。それが、小説を読むことによって全く違って見える。小説を読んだ後に俺はもう一度映画を観たけど、やはり登場人物達の見え方が違って、初見と比べて格段に中身のある映画に感じられた。映画であるならば映画単体で内容充実させるべきではないのか、という立場に立つなら、映画と小説を併せないとダメなどというのは、映画単体では駄作と言われても仕方がないと思う。

まぁ別にいいんだけどね。作品は、作者が好きに作って好きに表現するものなのだから、外野の俺がとやかく言うようなことではないのだし。

とはいえ、やはりあれだ。

新海誠作品は、考えたら負けだ。

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竹倉史人/輪廻転生

輪廻転生 〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語 (講談社現代新書)
 

 

宗教的人間であるわれわれが、人類の太初からの営みである、自らの存在を聖化すること—――大いなるものとの紐帯を創造すること―――を中止することはありえないでしょう。

輪廻転生 〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語 (講談社現代新書)より引用

 

「死」をどう考えるかというのは、そのままその人の世界観を表す。

俺は、「死」そのものについては特に重要視していない。それまでにどう生きたか、仮に志半ばだったとしても、どのような姿勢だったかを中心に考える。つまり、結果ではなく過程を重視するタイプと言える。いくら重要視していないとはいえ「死」が重要なポイントであることに変わりはなく、「死」を重要視しない理由も「考えてもわからないから」という至極単純な理由であり、その時点で思考を放棄しているからだ。

では仮に、死んでも自分という存在が続くとしたらどうなるのか。例え死んで現在の肉体に縛られた世界では認識できなくなったとしても、自分という存在ないし自我が存続するとしたら、俺の世界観はどう変わるのか。そう思ったので読んだ。いやごめん嘘です嘘ですKindleのセールで安くなってたからなんとなく買っただけです。

 

輪廻転生を信じるか信じないかと大きく2種類に分かれる。キリスト教は、輪廻転生否定派だ。しかし実際には、輪廻転生を信じている地域や慣習は古今東西ありとあらゆる所にあるらしい。それこそ仏教も輪廻転生から如何に解脱するかという宗教だし、輪廻転生を否定するキリスト教とて、それは世界が黙示録によって滅びた後の再生を掲げるからこその否定とも言えると、この本には書いてあった。

要は、「死」とどう向き合うかという精神の戦いの歴史こそが宗教だといえるのではないだろうか。宗教を学ぶ上で俺が必ず考えるのは、その宗教がどうやって信者を繋ぎ止めるか、どうやって信者間を1つの共同体として結び付けるのかという点だ。キリスト教はわかりやすく、キリストないしヤハウェを信じない者は天国に行けないという死後の利益を保証することによって信者を繋いでいる。仏教はもう変態マゾの集まりなんじゃないかと思うけど、解脱の境地に達することによって得られる浮世からの超越間という目標を掲げて邁進する一体感は強いと思う。体育会系だ。大乗仏教になってしまえば、これはもうキリスト教と大差無いだろう。お賽銭を投げれば何か良い事があるんだよきっと。

 

さて、どうやら輪廻転生にも色々な種類があるらしい。

この本では

①再生型・・・自分の親類や子供として死者が生まれ変わる狭いサイクルの転生。自分の娘が自分の父親の生まれ変わりだったりする正直ヤだこれ

②輪廻型・・・何に生まれ変わるかは前世の徳に左右されたりする広いサイクルの転生。ミジンコかもしれない

③リインカネーション型・・・強くてニューゲーム。俺TUEEE

という3タイプであると解説している。

近年の日本では、③リインカネーション型は非常にポピュラーに受け入れられている。

「異世界転生モノ」である。

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転生をする為には、まず「死後も自分の状態がある程度保存される」という前提が無くてはならない。つまり幽霊を怖がる人は、無意識にもこの前提を受け入れている人だ。死後にどの程度前世の状態を受け継ぐのかはそれぞれ違うものの、最近の「異世界転生モノ」で見られるのはかなり高度な引き継ぎといえるだろう。強くてニューゲームだ。厳密には死んでいなくても、精神が引き継がれて別の自分の個体に入るというのも、転生と捉えて良いと思う。

 

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一度死んで生まれ変わった世界で俺TUEEEして女の子にモテまくるというのは、とても原始的な欲求だ。権力欲と性欲を満たしていて、後は食欲さえ満たせば完璧である。異世界転生モノを書く時には、食事シーンを頻繁に取り入れてみてはどうだろうか。生々しい感じがして良いと思う。とはいえ最近は異世界転生モノも使い古されてきて、どのように捻るかの勝負になっている。

転生したらスライムだった件1 (GCノベルズ)
 
転生したら剣でした 1 (GCノベルズ)

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俺は結局どうしたいのか。

次の人生があれば良いとも思うけど、かといって今世を手抜きするというのもどうかと思うし。やはり全てはアリストテレス先生に帰結するのかしないのか。とりあえず眠い。

 

↓こんなふうに生きたい

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