馬鹿の独り言

物忘れの酷い俺のためだけのブログ

フロイト&アインシュタイン/ひとはなぜ戦争をするのか

中学2年の頃だったと思う。

塾の国語の先生が

「環境汚染を止めるにはどうしたらいいと思う?」

と聞いてきたので

「人間が地球からいなくなれば良いと思う」

と答えた。他の生徒や先生が凄い顔してこっちを見てきたのは、未だによく覚えている。

 

第一次大戦が終わってからすぐ後、アインシュタイン

「今の文明においてもっとも大事だと思われる事柄を、いちばん意見を交換したい相手と書簡を交わしてください。」

国際連盟から無茶ぶりをされて、その相手にフロイトを選んだらしい。当時世界で最も優れた知性を持っていたであろう2人の対談だ。ほんの短い書簡とはいえ、興味をそそられない筈が無い。その上その対談のテーマが

「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか?」

という誰にでもわかるテーマなのだから、もう読まずにはいられなかった。

 

結局のところ、アインシュタイン

人間には本能的な欲求が潜んでいる。憎悪に駆られ、相手を絶滅させようとする欲求が!

ひとはなぜ戦争をするのか (講談社学術文庫)より引用

と主張しており、フロイト

 人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうにもない!

ひとはなぜ戦争をするのか (講談社学術文庫)より引用

と同調を示している。まぁそうだよな。俺だってそう思う。

俺は趣味で剣道をやっているけど、剣道だって暴力だ。柔道・空手・剣道・ボクシングなどなど、相手を倒すことを目的とするスポーツが世の中には多い。いやいやスポーツはそういうのが目的じゃないんだよとかスポーツマンシップの下に精神鍛錬が目的なんだよとか色々と反発はあったとしても、相手に対して暴力を振るっているという事実は変わらない。テニスみたいな直接相手に暴力を振るわないスポーツも、勝ち負けがあるなら同じことだ。だからこそ如何に相手を傷つけないように配慮するかが大切だとかも思うけど、本題から外れるので止めとく。

アインシュタインが彼なりの素人考えで、戦争は永遠に終わらないんじゃなかろうかと主張したのに際して、フロイトは心理学者なので、精神分析などの心理学的な側面からやっぱ戦争根絶とか無理だよねという結論に達している。

フロイトの主張を纏めると

「人間には良い方向に進みたい健全な志向(生への欲動:エロス)と何もかもぶっ壊してしまいたい破滅的な志向(死の欲動タナトス)があって、それらが常に同居しているから暴力を完全に消すことなんてできない。ましてやその健全な志向と破滅的な志向のどっちが奨励されるかは時と場合によって違うので、破滅的な志向が世界から肯定される場合とかも出てくる。テロへの報復とか強盗への正当防衛とか反逆者を鎮圧したりとかな。だから暴力が必ずしも悪いといえない場面ってのがどうしても出てくるのよ。となるとやっぱり人間から暴力を取り除くとか無理でしょ。」

みたいな感じらしい。そして2人の議論は、では戦争が起きないような社会的な仕組みを如何に作っていくかという方向に進んでいくわけだけど、そこは本文を読んだ方が早い。

 

こんな話題は、誰だって一度は考えたことがある筈だ。俺だってある。

フロイトは心理学者なので、人間の心理的側面からこの問題を考えていた。俺はもっと俗物的なことを考えていて、人間が戦争を根絶できないのは

「資源が有限だから」

だと思っている。とはいえ完全に無限な資源を手にすることなんて、幼年期が終わらないと無理だろう。

だからやるとしたら

「物理的に戦争が不可能なようにする」

くらいしかないと思う。

ここで俺の根拠の無い空論をベラベラ書いていても時間の無駄だ。とはいえせっかく俺もキモオタなので、俺が今まで見てきたアニメの中から

「どうせ戦争根絶なんて無理だけど、これは良い線いけるんじゃねーかな」

と思った事例をピックアップして検討してみようと思う。

 

PSYCHO-PASS:完全管理社会

psycho-pass.com

完全管理社会というとジョージ・オーウェルの「1984」が有名だけど、最近のアニメでこの話題を扱ったのがこの作品だ。

人体を隅から隅までスキャンして「犯罪係数」という数値を測定し、その人間が犯罪を起こしそうになったら未然に逮捕・監禁、酷い時はその場で処刑するというシステムの話である。わりと頻繁にバンバン処刑してる。他にも、その人間の能力適性を計って職を斡旋したりもするので、システムから弾かれないかというプレッシャーを受け流しさえすれば一生安泰というわけだ。「マイノリティ・リポート」って映画もこういう題材だったなそういや。ありゃフィリップ・K・ディックが原作だった。なんにせよSFだ。

つまりありがちなネタだけど、「自由」という道義的な反発を除けばけっこう良い線まではいけそうなシステムだと思う。

PSYCHO-PASS」の中では「犯罪係数」が体質的に測定できないイレギュラーやシステムの抜け穴をついてくる奴がちょこちょこいたり、そもそもシステムの成り立ちや構造が実は冗談抜きにヤバかったりして、前提から破綻していた。

とはいえ、完全管理社会というのは、方向性としては悪くないと思う。完全管理社会というのは、俺たち人類が望んでいる「安全な社会」の完成形の1つだからだ。

フロイト

文化が発展していくと、人類が消滅する危険性があります。なぜなら、文化の発展のために、人間の性的な機能がさまざまな形で損なわれてきているからです。今日ですら、文化の洗礼を受けていない人種、文化の発展に取り残された社会階層の人たちが急激に人口を増加させているのに対し、文化を発展させた人々は子どもを産まなくなってきています。

ひとはなぜ戦争をするのか (講談社学術文庫)より引用

と述べている。これは少子高齢化が進む日本を見れば、全くの空論とは言っていられないだろう。技術が発展してきたことで乳児死亡率は圧倒的に下がってきているのに、事実として日本は少子高齢化だ。子供を産まなくなってきている。それとは別に、文化が発展することでそこに暮らす人々の知性も発展する。そうなると趣味嗜好の多極化が起こるので、団結しにくくなり戦争が起きにくくなる。「争い」の総数が減ると思う。

とはいえ、管理が一部の地域だけとかでは全く意味が無い。全世界で同じような管理システム、つまり文化の影響下に置かなくては、仮に管理社会側が戦争を起こさなくても「文化の発展に取り残された社会階層」の方からは何らかの戦争を仕掛けてくるだろうし、内輪揉めだって絶えず行われる筈だ。最近ヨーロッパで頻発しているテロも、その一環だと思う。

それに、仮に全世界を管理システムの支配下に置いたとしても

「人類全部支配下に置いちゃったけど、もう管理するよりも人類滅ぼしちゃった方が話早くね?」

というターミネータースカイネットのような結論に達すると思うので、やっぱりダメだと思う。人類から戦争を無くしたいなら人類を滅ぼせばいいって、それどこの聖杯ですかってもんだ。反則だ。

 

②楽園追放:電脳化

rakuen-tsuiho.com

アンジェラちゃん破廉恥なんじゃー。

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人類が肉体を持たず、完全に電脳化してデジタルの中で暮らすようになったらどうなのか、というのがこのアニメのテーマの1つだ。「攻殻機動隊」なんかもこの路線に近い。要は「生身の肉体を捨てた人類」っていう話である。

電脳化するということは、それ自体が新たなルールへ帰属するということだ。「楽園追放」では、あくまで電脳化なので、有限のサーバーの中で管理者にとって都合の良い貢献をするとメモリが増えるというシステムになっていた。逆に、管理者に貢献しない者はアカウントを凍結=永眠とされてしまう。結局、生身の肉体から別の電脳的肉体に形態が変わっただけで、本質はさほど変わらないわけだ。管理者の裁量次第で永眠させられてしまうため、場合によっては今の人類よりも質が悪いかもしれない。やはり「有限」という縛りがあると必ずそこで争いが産まれるので、仮に現在の肉体を捨てても、無限の資源を得られなければ何も解決しない。

この「有限」という問題を解決しそうな「オーバーロード」という存在がある。

幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341))

幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341))

 

こいつらの詳細はよくわからないものの、宇宙空間を自在に飛び回る精神体のような描写がある。本当に精神だけで存在することができて物質にも干渉できるのであれば、有限の資源を奪い合う必要が無くなるので、かなりの部分の争いは消えると思う。いわゆる「幽霊」と呼ばれる存在だけが、この条件を満たす。人間皆死んで幽霊になれば良いのかもしれない。脳の中に瞳を作りたまえよ。

 

ノーゲーム・ノーライフ:物理法則の改変

ngnl.jp

俺はここまでの考察で、意図的に「宗教戦争」という観点を避けてきた。宗教戦争ってのは要するに、相手が存在してるのが気に食わないから殺すのだ。この説明には、異論があるかも知れない。宗教戦争と聞いて、俺が最初に思い浮かぶのは「十字軍遠征」だ。あまり十字軍について詳しく勉強したことはないものの、印象としては、外部に敵を作ることで内紛を忘れさせると同時に領土を増やして裕福になれればラッキーみたいなことをキリスト教陣営は考えていたんじゃないかと、俺は思っている。とはいえそれは統治者の考えであって、末端の兵士とかはわりとマジでイスラムという存在そのものが気に食わないから救うために浄化する、みたいな気持ちだったんじゃなかろうか。でなきゃ虐殺なんかしないだろうし。かつての日本軍の兵士とかも、似たり寄ったりだったんだろう。

殊更この点を強調するのは、俺にも思い当たる節があるからだ。人生過ごしてれば誰しも1人や2人ぐらいそういう相手がいると思う。相手の人格とか社会的な立場とか関係無しに、ただ存在してるのが気に食わないから殺したいと思う相手が、少なくとも俺にはいる。産まれつきそんなことを思ってたわけではなくてちゃんと理由はあるんだけど、まぁそんなことはどうでもいい。

こういうタイプの戦争すらも無くそうと思ったら、完全管理とか電脳化とかしたってどうしようもない。人類がソイツと2人きりになっても殺したいと思うようなら、どんな物理的手段を講じても防ぐことなんてできない。

こんなのあくまで個人的な恨みや妄執であって別に戦争なんかに発展しないだろうと思わなくもないけど、ナチスとかを見てるとそうとも言い切れないと思う。

 

しかし、そんな存在してるから殺すみたいなどうしようもない戦争すらも解決してしまったのがこの「ノーゲーム・ノーライフ」だ。この世界では、ゲームによって生殺与奪の全てが決まる。ゲームに勝ちさえすれば人権なんてゴミクズ同然、神様の権能だって奪える素敵な世界だ。昔は派手にドンパチやってたけど、うっかりゲーム好きな神様が覇権取っちゃったもんだからこんな世界になっちまったらしい。物理法則の改変なんて派手だけど地味なギミック使って、殺傷・戦争・略奪を全面的に禁止してしまった。このやり方なら完璧だ。結果として奪う者・奪われる者という立場が発生するのは変わらないけど、無闇な殺し合いを防ぐという意味での戦争行為は完全に撲滅できる。

 

【総括】

フロイトが言うには

逆説的に聞こえるかもしれませんが、こう認めねばならないことになります。人々が焦がれてやまない「永遠の平和」を達成するのに、戦争は決して不適切な手段ではないだろう、と。

ひとはなぜ戦争をするのか (講談社学術文庫)より引用

人間は大なり小なり個人にしろ集団にしろ、何かと日々戦い続けているものだ。群雄割拠の時代を終わらせて太平を齎すためには、戦争だって必要な手段の1つになる。日本でいえば戦国時代がそうだし、この本でフロイトローマ帝国の繁栄を例にしてそれを説明している。

アインシュタイン

国際的な平和を実現しようとすれば、各国が主権の一部を完全に放棄し、自らの活動に一定の枠をはめなければならない。他の方法では、国際的な平和は望めないのではないでしょうか。

ひとはなぜ戦争をするのか (講談社学術文庫)より引用

 と述べているものの、フロイトの考えはそれだけでは不十分で、鍵となるのは

「文化の発展」

であるという推察を返している。

文化の発展が人間の心のあり方に変化を引き起こすことは明らかで、誰もがすぐに気づくところです。では。どのような変化が起きたのでしょうか。ストレートな本能的な欲望に導かれることが少なくなり、本能的な欲望の度合いが弱まってきました。私たちの祖先なら強く興奮を覚えたもの、心地よかったものも、いまの時代の人間には興味を引かないもの、耐え難いものになってしまっています。

ひとはなぜ戦争をするのか (講談社学術文庫)より引用

フロイトは心理学的な側面から、人間から暴力的な志向を取り去ることなどできそうにないと言った。俺もそう思うので、じゃあ物理的に封じ込める以外に取れる手段って現状無さそうじゃんと考えた。それならどうしようかと今回の記事に纏めてみたものの、結局、物理法則の改変くらいまでやらなきゃ無理なんじゃなかろうかという考えにまで行きついてしまった。こんな解答には何の意味も価値も無い。

物理的な封じ込めが無理っぽいならば、やはり精神的な面から攻める以外に手は無い。

となると、答えは「共感」であると思う。

他人の痛みを想像して共感できるようになれば、そう安易に戦争に走ることもあるまい。

日本は先進国だ。アニメ・漫画・ゲームといった精神的な文化も古代から根強く、主義主張の多様性という点では間違いなく世界トップクラスであると思う。そんな日本で生まれ育った俺が戦争の無い世界を作るためにできることといえば、少しでも多くの感情や知識に触れて、他人に共感する気持ちを育んでいくことくらいしか、現状はできそうにない。もし子供がいるのなら、その子を優しくて良い子に育てるくらいが、一人の個人としてできる精一杯の世界への貢献だろう。

 

↓「愛」というのも1つの答えかもしれない

愛するということ

愛するということ

 

 

【雑記】NEW GAME!/俺の泣き所選集

俺も、朝出勤したら美人なお姉さんがパンツ丸出しで机の下で寝てるような人生を送りたかった。

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今季から始まった「NEW GAME!」というアニメ。以前から「がんばるぞい」がプロパガンダの如く露骨にアピールされててやっぱアニメ化したのかという既定路線であったものの、まぁとりあえず見てみるかと思って見てみたら号泣した。

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今回は、俺がどこを見て号泣したかをちょっとメモしておこうと思う。

 

①満員電車

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あぁー、うん、わかるわかる。俺も毎日こんなんだ。俺はこんな感じの生活を高校の頃からずっと送っているので、最早慣れきってしまっている。でも、満員電車のストレスってのは無視できるレベルではない。登校・出勤するだけで一日の体力を使いきってしまうこともある。朝の通勤ラッシュに小学生くらいの子供がもまれていたりすると、その子の親を虐待で訴えたくなるくらいにはストレスが溜まる。そんな状況にこれから人生の大部分を置かれてしまう青葉ちゃん。3カ月後くらいには、肌荒れとか目の隈とか凄いことになってそうだ。泣ける。

 

②土下座

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入社日に会社の前でそわそわする気持ちを堪えられずにオロオロしていたところ、助けてくれた先輩が自分の部署のボスでしたと言われてこれだ。社会人一日目からこの鮮やかなDOGEZA。働き始めると「すみません」というのが口癖になる。特に謝らなければならないことをしていないのについ「すみません」と言ってしまう。お客さんから電話がかかってきて出た時の第一声が「すみません」だ。どうしてこんなに卑屈なの俺。青葉ちゃん社畜力高すぎんよー。

 

③マナーと気楽さの狭間

誰だって入社当初は不安だ。新しい環境に馴染めるのか。上司との付き合いは上手くやっていけそうか。自分のスキルで大丈夫なのか。不安の塊だ。上司が口下手だったりしたらもう最悪。どーすんの。初日からあんまり馴れ馴れしくするのはダメだし、かといってわからないものはわからないんだから、聞かなきゃ自分は穀潰し。どーすんのこれ。

そんな口下手な上司から

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なんて言われたらもう安心感ハンパない。温泉に浸かっているかのような安心感だ。そりゃ油断する。ほんの数日前まで女子高生だったしな!

そんで更に上の上司に

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とやったら

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これだ。確かに上司に対して入社初日からラフなメール送るのはダメだ。しかし、会社に泊まり込んでパンツ丸出しで寝てた人間の言うセリフじゃねぇ。もう完全に本音と建前が分離してしまっている。確かに学生から社会人になってまず叩き込むべきは社会人としてのマナーだろうけど、じゃあ上司だったらパンツ丸出しで床に寝てても良いのか?いや良くないだろ!

このアニメの会社は美少女しか出てこないから許されるものの、現実ではパンツ丸出しのアラフォーのオッサンがデスクの下から這いずり出てきてマナーについて説教してくるのだ。色々とモラルが崩壊している。

 

④帰れなくなるよ

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あぁーはいはいわかるわかる。俺の業界もそんな感じだ。今更言うまでもないな。はは。

 

 

俺の涙腺にきたのはこんなところか。俺だって最初は自分が目指していた業界に無事入ることができて、野望に燃えていた時期があった。やたら意識高かった。けど大多数の人間がそうであるように、俺も段々と日頃の忙しさに追われて、やりたいこととかそういうのを忘れてしまった。今では萌えアニメ見ながら安いビール飲むくらいしか人生の楽しみが無い。こんな大人になってはいけないんだぞ。

頑張れ青葉ちゃん。君には社畜の才能がある。

次回は飲み会エピソードらしい。酒を飲めない新人が飲み会地獄に放り込まれたらどうなるか、期待して待つ。

 

平田オリザ/わかりあえないことから

良い本だったと思う。

人間が完全にわかりあうことなんてできないんだから、自分の気持ちを少しでも正確に伝えられるような技術を学んでいくべきだという俺の思想に合致していたこともあり、全般的に「確かにその通りだな」と思うことが多かった。

段々と文章がヒートアップしてくると日本社会や教育システムに対する批判が過熱してしまって、少しウンザリはした。

 

コミュニケーション能力とは、要は上っ面で付き合う能力だ。

いわゆる「コミュ力が高い」と言われる人とは、相手を不快にさせない付き合い方が上手いということだし、相手を不快にさせないということは無理に自分の主張を叩き付けたりだとかはしないということだ。

本音を出して摩擦が生まれないことなど、基本的には無い。

俺なんかは、人間関係は摩擦が起きてこそなんぼだと思っているので、相手にとってキツい意見だとわかっていても敢えて叩き付けて煽ってみたりするものの、そうするとけっこう嫌われるので最近は自重している。

とはいえ別に上っ面の付き合いがダメだと言っているのではなくて、むしろこれからはそういうスキルも教育の一環として取り入れるべきだ、というのが著者の主張であり俺の主張でもある。

それを導入するためには結局どうするのが良いの?という点で、著者は自分が劇作家であることもあって、演劇を取り入れるのが良いんじゃないかと述べている。

 

この本で特に俺にとって目新しいと感じたのは

「話しかけやすい空間を作る」

という考え方である。

コミュニケーションは個人の資質だという考えが日本社会においては根強いし、「コミュ力高い」というのは何やらゲームのステータスが元から高いかのような信仰にも似た扱いを受けている。それはある程度はそうかも知れないし、やはり天性の得手不得手はある。とはいえ、日頃の雑談くらいなら誰にでも慣れればできるだろうと思う。

それとは別に「どんな状況だったら話しかけやすいか」という視点は今までの俺に欠けていた。

狭いエレベーターの中で、日本人は基本的に自然と黙るけど、海外特に欧米の奴らは逆に話しかけないと自分が安心できないのか、ほぼ絶対話しかけてくるし、話さないにしても目を合わせて笑顔を交わしたりくらいは必ずする。

文化的な違いはあれど、そもそもとして、当たり障りの無いことを話したり笑顔を交わしたりというのは、相互理解の第一歩としては言うまでもなく有効だ。

コミュニケーション能力を個人の資質だと思いこむと、必要以上に自分を卑下したり過剰防衛したり、相手にコミュニケーション能力が無いんだと無闇に責めることにもなりかねない。「自分にはコミュ力が無いから」と無駄なドツボに嵌まっている人間は、俺を含めて世の中には非常に多い。

そういう問題を解決するには、コミュニケーションを個人の資質に依存させるのではなく、舞台装置として「話しかけやすい空間」を作る努力をするのが良いんじゃないかと、俺は思った。

 

では「話しかけやすい空間」って何なんだ、というのが俺がこの本で得た新たな疑問だ。友達と行く飲み会と会社の付き合いで行く飲み会の違いとか、そういう類である。

やはり視覚的な空間作りから始めるべきなのか。壁紙とか家具の形とかそういうのか。もちろん日頃から一緒に暮らしている人への配慮の仕方などは、ちゃんと考えなくてはいけないと思う。

ちょうど良いことに、この夏から二人暮らしを始めることになっているので、色々と考えてみようと思っている。