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馬鹿の独り言

物忘れの酷い俺のためだけのブログ

【雑記】ペルソナ5をクリアしたらうつうつした話

雑記

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persona5.jp

理性は情念の奴隷であり 、またそれだけのものであるべきであって 、理性は情念に仕え 、従う以外になんらかの役目をあえて望むことはけっしてできないのである。

人性論 (中公クラシックス)より引用

 

先日、ペルソナ5をクリアした。

いやー、めっちゃおもろかったっす。1週目の記録は4股でした。2週目は本命の春ちゃん一筋でいくつもりなので、あんな酷い修羅場にはもう陥りません。やっぱ2次元って良いよなぁ。俺は、おっぱいデカい美少女が大好きだ。

今作は「大衆の認知」がテーマだった。ペルソナ4よりも話が大きくなってて、俺も怪盗やりたくなった。

今作のペルソナは「反逆の意志」の表象だったけど、じゃあ何に反逆すんのっていうと、ザックリ言えば「権力」だ。双葉や新島冴は特殊な事例として

鴨志田、班目、金城、獅童

の4人はいわゆる「権力者」で、そいつらに人生を食い荒らされそうになってる若者が反逆をするというのが今作の大筋だった。しかし双葉の件から徐々に怪盗が世間に認知されていった結果、怪盗団は、ついには大衆そのものを相手にオタカラを盗むことになる。

そもそも考えてみれば、権力というのは大衆の迎合が無ければ存在し得ない。権力者本人の実績や人格は多種多様でも、その権力者を承認する大衆の存在があってこその権力というのは、どんな場合でも共通だ。それに、大衆には権力に服従し、考えることを止めて楽になりたがる性質がある。

自由からの逃走 新版

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今作で登場した4人の権力者も、大衆の迎合に支えられていたという原理を考えれば、最初からラスボスは大衆そのものなのではないかと推察するのは容易い。容易いと言いつつ、俺は何も考えずにプレイしてたけどな。

こんな下地があるからこそ、ラスボスが大衆の願いを叶える「聖杯」というのはストーリーとして非常に良い着地点だったと思うし、聖杯に至る道中を天使が守っているのも良い設定だった。神や天使といった神聖とされる存在も、大衆の信仰が無ければ存在し得ないという点については権力と同じ。何より、女神転生シリーズの頃から「神」とか「悪魔」を扱ってきたペルソナシリーズにおいて、こんな相応しいラスボスは中々いないんじゃなかろうか。そういった意味で、今作はペルソナシリーズの持つ特徴によく合致した、ペルソナらしい作品だったと俺は思っている。

それにしても、イゴールについてはマジでビビった。中の人がお亡くなりになられたという事情を逆手に取られて、完全に油断していた。テンション上がりましたよあれは。

さて

「大衆の認知」とか「群集心理」とか、そういうので最近似たような話があったなと思って、思い出した。

ガッチャマンクラウズだ。

www.ntv.co.jp

ガッチャマンクラウズのテーマの1つに「世の中の見方」があった。1期は、周囲を見ずに自分の世界に引き篭もって世の中クソだと思っている人間を、ベルクカッツェが煽って破滅に導くという物語だった。人間はつい外面にばかり目が行ってしまったり、自分の考えに凝り固まって素直に物事が認識できなくなりがちである。余裕が無い奴はダメだ。この辺りは、最初の方から徹底して示されている。特に印象的だったのは、はじめちゃんのコラージュコミュニティのオフ会で、市長や消防署長が紹介されたシーンだ。

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市長は「清水伸男」、消防署長は「桑原隆男」という名前がある。しかしどうだろう、俺はこの記事を書く瞬間まで、この2人のことは「市長」「消防署長」と記憶していた。ペルソナ5に擬えると、「市長」というペルソナの中に「清水伸男」というシャドウがいるわけだ。はじめちゃんは最初からシャドウに目を向けていたけど、清音はペルソナの方に目を向けてしまっている。ペルソナ5では、「日本を導く俊英の政治家」というペルソナの中に「獅童正義」というシャドウがいた。世間一般の人はどちらに目が行きがちかといえば、圧倒的にペルソナの方だろう。身近な例として、自分の会社の重役とかゼミの教授とかを、ペルソナを無視してその人間性を見抜くことができるかって話だ。けっこう難しいと思う。そういう点で、はじめちゃんは正に天才だ。ベルクカッツェに対しても同じ態度で接するし、それが1期の終着点になる。

2期において、つばさちゃんが バードゴーできなかった理由も想像できる。

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「変身する」というのは、すごくザックリ言えば「主体性を発揮する」ということだ。2期でのつばさちゃんは、世間の空気に流されてゲルサドラを盲信し、主体性を発揮することができなかった。しかし、爺ちゃんに戦争の話とかを聞いて不器用ながらも自分の意見を形成するようになってからというもの、上手くバードゴーできるようになった。

大衆が世間を正しく認知するようになるのは、怪盗団やガッチャマンが奮闘した影響が大きい。はじめちゃんが一芝居打ったり怪盗団がオタカラを盗ったりした結果、はじめて大衆は自分達の空気が間違っていることに気付く。

では大衆は常に愚かなのかといえば、そうとも限らないだろうというのがガッチャマンクラウズのメッセージだった。ペルソナ5では、大衆の認知であるメメントスは醜く歪んでいた。ガッチャマンクラウズにおいても、大衆は常に愚かな存在として描かれる。オルテガによると、大衆とは以下のように定義されるらしい。

大衆とは 、善い意味でも悪い意味でも 、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず 、自分は 「すべての人 」と同じであると感じ 、そのことに苦痛を覚えるどころか 、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである 。

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)より引用

この定義は、いわば「心理的大衆」とでも言う状態である。つまり物理的に大衆である必要は無く、このような心理のことを指して「大衆」と述べている。

他人と同一であることに喜びを見出すという気持ちは、多かれ少なかれ誰にでもあるだろう。程度の問題だとは思うけど、他人と同一であることに喜びを感じるというのは、突出したくないという気持ちとセットだ。単に現在を楽しむためなら、そういう気持ちはとても大切だと思う。しかし何か打破すべき現状に立ち向かうためには、同一であることは最悪と言っていい。

大衆が力を発揮して驚くべき成果を上げる事例というのは、確かにある。いわゆる「集合知」といわれる分野の研究は、少し前にブームだった。

群衆の智慧 (角川EPUB選書)

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しかし、集合知が有効なのは、非常に限定的な条件が揃った時のみだとされている。 ガッチャマンクラウズでは、はじめちゃんがマジに命賭けた結果、ようやく大衆はゲルサドラへの盲信から離れることができた。ペルソナ5では怪盗団に乗っかるだけのクソみたいな大衆しか描かれなかったけどな。つまり結局のところ、個人がそれぞれ主体性を発揮、とまでは言わずとも、せめて自分の考えを形成できる程度には主体的に生きることが求められるようだ。これはどんな条件でも変わらない原則だと思う。

どっちにしろ俺は、こんなことをくどくどと考えている時点で、大衆には属さないのかもしれない。

うつうつしてる場合じゃないです。

 

春ちゃんが素敵すぎて俺もキモいって言われたくなりました

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