馬鹿の独り言

物忘れの酷い俺のためだけのブログ

竹倉史人/輪廻転生

輪廻転生 〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語 (講談社現代新書)
 

 

宗教的人間であるわれわれが、人類の太初からの営みである、自らの存在を聖化すること—――大いなるものとの紐帯を創造すること―――を中止することはありえないでしょう。

輪廻転生 〈私〉をつなぐ生まれ変わりの物語 (講談社現代新書)より引用

 

「死」をどう考えるかというのは、そのままその人の世界観を表す。

俺は、「死」そのものについては特に重要視していない。それまでにどう生きたか、仮に志半ばだったとしても、どのような姿勢だったかを中心に考える。つまり、結果ではなく過程を重視するタイプと言える。いくら重要視していないとはいえ「死」が重要なポイントであることに変わりはなく、「死」を重要視しない理由も「考えてもわからないから」という至極単純な理由であり、その時点で思考を放棄しているからだ。

では仮に、死んでも自分という存在が続くとしたらどうなるのか。例え死んで現在の肉体に縛られた世界では認識できなくなったとしても、自分という存在ないし自我が存続するとしたら、俺の世界観はどう変わるのか。そう思ったので読んだ。いやごめん嘘です嘘ですKindleのセールで安くなってたからなんとなく買っただけです。

 

輪廻転生を信じるか信じないかと大きく2種類に分かれる。キリスト教は、輪廻転生否定派だ。しかし実際には、輪廻転生を信じている地域や慣習は古今東西ありとあらゆる所にあるらしい。それこそ仏教も輪廻転生から如何に解脱するかという宗教だし、輪廻転生を否定するキリスト教とて、それは世界が黙示録によって滅びた後の再生を掲げるからこその否定とも言えると、この本には書いてあった。

要は、「死」とどう向き合うかという精神の戦いの歴史こそが宗教だといえるのではないだろうか。宗教を学ぶ上で俺が必ず考えるのは、その宗教がどうやって信者を繋ぎ止めるか、どうやって信者間を1つの共同体として結び付けるのかという点だ。キリスト教はわかりやすく、キリストないしヤハウェを信じない者は天国に行けないという死後の利益を保証することによって信者を繋いでいる。仏教はもう変態マゾの集まりなんじゃないかと思うけど、解脱の境地に達することによって得られる浮世からの超越間という目標を掲げて邁進する一体感は強いと思う。体育会系だ。大乗仏教になってしまえば、これはもうキリスト教と大差無いだろう。お賽銭を投げれば何か良い事があるんだよきっと。

 

さて、どうやら輪廻転生にも色々な種類があるらしい。

この本では

①再生型・・・自分の親類や子供として死者が生まれ変わる狭いサイクルの転生。自分の娘が自分の父親の生まれ変わりだったりする正直ヤだこれ

②輪廻型・・・何に生まれ変わるかは前世の徳に左右されたりする広いサイクルの転生。ミジンコかもしれない

③リインカネーション型・・・強くてニューゲーム。俺TUEEE

という3タイプであると解説している。

近年の日本では、③リインカネーション型は非常にポピュラーに受け入れられている。

「異世界転生モノ」である。

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転生をする為には、まず「死後も自分の状態がある程度保存される」という前提が無くてはならない。つまり幽霊を怖がる人は、無意識にもこの前提を受け入れている人だ。死後にどの程度前世の状態を受け継ぐのかはそれぞれ違うものの、最近の「異世界転生モノ」で見られるのはかなり高度な引き継ぎといえるだろう。強くてニューゲームだ。厳密には死んでいなくても、精神が引き継がれて別の自分の個体に入るというのも、転生と捉えて良いと思う。

 

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一度死んで生まれ変わった世界で俺TUEEEして女の子にモテまくるというのは、とても原始的な欲求だ。権力欲と性欲を満たしていて、後は食欲さえ満たせば完璧である。異世界転生モノを書く時には、食事シーンを頻繁に取り入れてみてはどうだろうか。生々しい感じがして良いと思う。とはいえ最近は異世界転生モノも使い古されてきて、どのように捻るかの勝負になっている。

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俺は結局どうしたいのか。

次の人生があれば良いとも思うけど、かといって今世を手抜きするというのもどうかと思うし。やはり全てはアリストテレス先生に帰結するのかしないのか。とりあえず眠い。

 

↓こんなふうに生きたい

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