馬鹿の独り言

物忘れの酷い俺のためだけのブログ

辨野義己/大便通

大便通 知っているようで知らない大腸・便・腸内細菌 (幻冬舎新書)

大便通 知っているようで知らない大腸・便・腸内細菌 (幻冬舎新書)

 

 

 

最近、うんちの話をするようになった。

どうしてかという理由は言えないものの、うんちだ。1日5回くらいは言ってる気がする。そこで思った。

俺は、うんちのことを何も知らないじゃないか。

 

本の結論は、この一言だ。

「ヨーグルト食べよう」

構成は非常にわかりやすい。

まず、我々の腸はどのようなものなのかを説明する。次にどんな病気が懸念されるかを示し、最後にその予防策を述べる。その予防策として提示されるのが、ヨーグルトだ。

俺にとって、ヨーグルトは1つの関門だ。俺は昔から腹が弱い。ヨーグルトは主に朝食として食べられるものだと思うけど、俺は朝にヨーグルトなどの乳製品を食べるとほぼ100%腹を壊す。哀しい。

この本を読んでからというもの、トイレに行くとうんちの様子をチェックするようになった。

実家を出てからはとりあえず毎日、野菜は欠かさず食べるようにしている。そのせいか最近では、毎日1〜2回くらいはうんちが出るようになった。実家にいた頃は、うんちの頻度にはバラつきがあった。主な原因は、飲み会が減ったことだ。実家暮らしの社会人なんて、金が余って仕方がない。毎晩のように飲みに行っていたし、ランチも充実していた。それが今や、昼はおにぎり2つで夜は自炊だ。それで毎日野菜は欠かさない。そりゃ腸の調子も良くなるってもんだ。

うんちがちゃんと健康的に出るようになったのは良い。しかし、どう良くなっているのかはわからなかった。それがこの本を参考にすることによって、自分の腸の状態を客観的に分析することができるようになった。これは大きな違いである。

俺は、その時出したうんちを見て

「このタイプのうんちが出たのは、恐らく昨日アレを食べたからだ。でも異常な色や硬さや匂いはしていないので、現状は問題無いと思われる。うんちが出るサイクルも標準的だし、便秘などの心配は全く無いだろう」

などといった推察ができるようになった。うんちについてはこの本を1冊読んだだけなので、素人に毛も生えていない程度でしかない。それでも、自分の健康状態に何らかの客観性を自分で持たせることができるというのは、日々を過ごす上で安心感が全く違う。俺のようなサラリーマンにとって、健康は死活問題だ。日々のチェックは絶対に欠かせない。

俺は野菜はよく食べるけど、海藻も同じくらい好きだ。サラダを買ってくる時はほぼ必ず海藻サラダだし、今もおしゃぶり昆布を食べながらこの記事を書いている。本ではあまりフォーカスされなかったものの、昆布も腸内環境を整える上では非常に効果的らしい。

うんちを学ぶということは、腸を学ぶということだった。これからも毎日元気にうんちを出していこうと思う。

仕事を中断する口実にもなるしな(小声)

【雑記】ペルソナ5をクリアしたらうつうつした話

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persona5.jp

理性は情念の奴隷であり 、またそれだけのものであるべきであって 、理性は情念に仕え 、従う以外になんらかの役目をあえて望むことはけっしてできないのである。

人性論 (中公クラシックス)より引用

 

先日、ペルソナ5をクリアした。

いやー、めっちゃおもろかったっす。1週目の記録は4股でした。2週目は本命の春ちゃん一筋でいくつもりなので、あんな酷い修羅場にはもう陥りません。やっぱ2次元って良いよなぁ。俺は、おっぱいデカい美少女が大好きだ。

今作は「大衆の認知」がテーマだった。ペルソナ4よりも話が大きくなってて、俺も怪盗やりたくなった。

今作のペルソナは「反逆の意志」の表象だったけど、じゃあ何に反逆すんのっていうと、ザックリ言えば「権力」だ。双葉や新島冴は特殊な事例として

鴨志田、班目、金城、獅童

の4人はいわゆる「権力者」で、そいつらに人生を食い荒らされそうになってる若者が反逆をするというのが今作の大筋だった。しかし双葉の件から徐々に怪盗が世間に認知されていった結果、怪盗団は、ついには大衆そのものを相手にオタカラを盗むことになる。

そもそも考えてみれば、権力というのは大衆の迎合が無ければ存在し得ない。権力者本人の実績や人格は多種多様でも、その権力者を承認する大衆の存在があってこその権力というのは、どんな場合でも共通だ。それに、大衆には権力に服従し、考えることを止めて楽になりたがる性質がある。

自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版

 

今作で登場した4人の権力者も、大衆の迎合に支えられていたという原理を考えれば、最初からラスボスは大衆そのものなのではないかと推察するのは容易い。容易いと言いつつ、俺は何も考えずにプレイしてたけどな。

こんな下地があるからこそ、ラスボスが大衆の願いを叶える「聖杯」というのはストーリーとして非常に良い着地点だったと思うし、聖杯に至る道中を天使が守っているのも良い設定だった。神や天使といった神聖とされる存在も、大衆の信仰が無ければ存在し得ないという点については権力と同じ。何より、女神転生シリーズの頃から「神」とか「悪魔」を扱ってきたペルソナシリーズにおいて、こんな相応しいラスボスは中々いないんじゃなかろうか。そういった意味で、今作はペルソナシリーズの持つ特徴によく合致した、ペルソナらしい作品だったと俺は思っている。

それにしても、イゴールについてはマジでビビった。中の人がお亡くなりになられたという事情を逆手に取られて、完全に油断していた。テンション上がりましたよあれは。

さて

「大衆の認知」とか「群集心理」とか、そういうので最近似たような話があったなと思って、思い出した。

ガッチャマンクラウズだ。

www.ntv.co.jp

ガッチャマンクラウズのテーマの1つに「世の中の見方」があった。1期は、周囲を見ずに自分の世界に引き篭もって世の中クソだと思っている人間を、ベルクカッツェが煽って破滅に導くという物語だった。人間はつい外面にばかり目が行ってしまったり、自分の考えに凝り固まって素直に物事が認識できなくなりがちである。余裕が無い奴はダメだ。この辺りは、最初の方から徹底して示されている。特に印象的だったのは、はじめちゃんのコラージュコミュニティのオフ会で、市長や消防署長が紹介されたシーンだ。

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市長は「清水伸男」、消防署長は「桑原隆男」という名前がある。しかしどうだろう、俺はこの記事を書く瞬間まで、この2人のことは「市長」「消防署長」と記憶していた。ペルソナ5に擬えると、「市長」というペルソナの中に「清水伸男」というシャドウがいるわけだ。はじめちゃんは最初からシャドウに目を向けていたけど、清音はペルソナの方に目を向けてしまっている。ペルソナ5では、「日本を導く俊英の政治家」というペルソナの中に「獅童正義」というシャドウがいた。世間一般の人はどちらに目が行きがちかといえば、圧倒的にペルソナの方だろう。身近な例として、自分の会社の重役とかゼミの教授とかを、ペルソナを無視してその人間性を見抜くことができるかって話だ。けっこう難しいと思う。そういう点で、はじめちゃんは正に天才だ。ベルクカッツェに対しても同じ態度で接するし、それが1期の終着点になる。

2期において、つばさちゃんが バードゴーできなかった理由も想像できる。

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「変身する」というのは、すごくザックリ言えば「主体性を発揮する」ということだ。2期でのつばさちゃんは、世間の空気に流されてゲルサドラを盲信し、主体性を発揮することができなかった。しかし、爺ちゃんに戦争の話とかを聞いて不器用ながらも自分の意見を形成するようになってからというもの、上手くバードゴーできるようになった。

大衆が世間を正しく認知するようになるのは、怪盗団やガッチャマンが奮闘した影響が大きい。はじめちゃんが一芝居打ったり怪盗団がオタカラを盗ったりした結果、はじめて大衆は自分達の空気が間違っていることに気付く。

では大衆は常に愚かなのかといえば、そうとも限らないだろうというのがガッチャマンクラウズのメッセージだった。ペルソナ5では、大衆の認知であるメメントスは醜く歪んでいた。ガッチャマンクラウズにおいても、大衆は常に愚かな存在として描かれる。オルテガによると、大衆とは以下のように定義されるらしい。

大衆とは 、善い意味でも悪い意味でも 、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず 、自分は 「すべての人 」と同じであると感じ 、そのことに苦痛を覚えるどころか 、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである 。

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)より引用

この定義は、いわば「心理的大衆」とでも言う状態である。つまり物理的に大衆である必要は無く、このような心理のことを指して「大衆」と述べている。

他人と同一であることに喜びを見出すという気持ちは、多かれ少なかれ誰にでもあるだろう。程度の問題だとは思うけど、他人と同一であることに喜びを感じるというのは、突出したくないという気持ちとセットだ。単に現在を楽しむためなら、そういう気持ちはとても大切だと思う。しかし何か打破すべき現状に立ち向かうためには、同一であることは最悪と言っていい。

大衆が力を発揮して驚くべき成果を上げる事例というのは、確かにある。いわゆる「集合知」といわれる分野の研究は、少し前にブームだった。

群衆の智慧 (角川EPUB選書)

群衆の智慧 (角川EPUB選書)

 

しかし、集合知が有効なのは、非常に限定的な条件が揃った時のみだとされている。 ガッチャマンクラウズでは、はじめちゃんがマジに命賭けた結果、ようやく大衆はゲルサドラへの盲信から離れることができた。ペルソナ5では怪盗団に乗っかるだけのクソみたいな大衆しか描かれなかったけどな。つまり結局のところ、個人がそれぞれ主体性を発揮、とまでは言わずとも、せめて自分の考えを形成できる程度には主体的に生きることが求められるようだ。これはどんな条件でも変わらない原則だと思う。

どっちにしろ俺は、こんなことをくどくどと考えている時点で、大衆には属さないのかもしれない。

うつうつしてる場合じゃないです。

 

春ちゃんが素敵すぎて俺もキモいって言われたくなりました

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トレヴァー・ノートン/世にも奇妙な人体実験の歴史

世にも奇妙な人体実験の歴史

世にも奇妙な人体実験の歴史

 

 

マッドサイエンティスト

と聞くと、多くの人が一番最初に思い浮かべるのは「フランケンシュタイン」だと思う。

フランケンシュタイン (新潮文庫)

フランケンシュタイン (新潮文庫)

 

神の領域を侵した人間の苦悩と、徐々に人間の心を獲得していく醜い怪物の交流を描いたハートフルヒューマンドラマである。

あれは、墓場から掘り起こした死体を主な材料としていた。フランケンシュタインの書かれた18世紀のイギリスでは、医学実験のために墓場から新鮮な死体を盗掘することが盛んだった。当時の読者には、墓場の傍で人体実験に励むフランケンシュタインの姿は、非常にリアリティのある情景だったんじゃなかろうか。

そもそもマッドサイエンティストとは、狂気に駆られて人間の倫理を外れた実験を行う変態を指す言葉だ。「フランケンシュタイン」の主人公であるヴィクター・フランケンシュタインは、正にこの類である(もっとも、ヴィクターはその狂気から醒めてしまうけども)。この本に出てくる人体実験を行うマッドサイエンティスト達も、人間を実験台として普通はやらないような変態行為を生涯繰り返した。

梅毒と淋病に同時に罹ってみる

深海と成層圏のどっちにも行って臨死体験してみる

一酸化炭素中毒になってみる

読んでいる途中で思わず顔を顰めることも少なくなかった。

俺達が思い浮かべるマッドサイエンティストというと、何やら怪しげな実験をして世間に迷惑をかける奴らというイメージがある。しかし、この本に出てきた奴らは違った。確かに彼らは紛う事無きマッドサイエンティストだ。やってることは狂気の沙汰だし、想像するだけで吐き気がするようなことばかりやっている。

ファースは嘔吐物をとろ火で煮てその蒸気を吸入した。吐き気のためについに我慢できなくなるまで、数時間にわたって吸入しつづけたのである。患者の嘔吐物を犬に注射してみたところ、その犬はわずか数分で死んでしまった。にもかかわらず、彼は自分の血管に嘔吐物を注射し、両腕を深く切開してその傷口にも注入した。体に患者の血液、汗、尿を塗りつけ、患者の唾液、血液、嘔吐物を飲んだ。

世にも奇妙な人体実験の歴史より引用

しかし、この本に出てくる奴らの殆どは、我々のイメージとはある一点で異なっている。それは、実験台を自分自身にするということだ。

戦争で捕まえてきた捕虜だとか死体を実験台にするというのなら、まだ気持ちはわかる。でもいったいどんな人生を送ったら、自分で1時間以上も過呼吸を繰り返して二酸化炭素を体から出し切ることで、痙攣の世界記録を打ち立てようなどと思うのか。

この本に出てくる人物達の中で、現在まで一般に広く知られている人物は非常に少ない。俺が知っていたのは

エドワード・ジェンナー

キュリー夫妻

ジョン・ハンター

バリー・マーシャル

くらいなものだった。しかし、これらの人物がほんの一部に過ぎないほどに、この本では多くの偉大な自己実験者が紹介されている。彼らの多くはゲロを煮詰めて飲んでみたり大西洋をゴムボートだけで渡ってみたり人体が耐えられるGの限界に挑戦しようなどという、極めて頭のおかしい奴等だ。偶に死んだりする。彼らをそんな行動に駆り立てたものはなんだったのか、俺にはわからない。彼らは、人類に色褪せることのない貢献を果たした偉大な人物達だ。自らの労苦を厭わず社会に貢献する。そういう人物こそ、世間一般では大いに賞賛されている。そんな先駆者達のおかげで我々の日々の生活が成り立っているという事実を見れば、当然の賞賛だろう。

ただその一方で、俺は絶対にそんな風にはなれないと思う。俺は疲れるのは嫌だしめんどくさいのは嫌だし、できるだけベッドでゴロゴロしていたい。なにより、そんな危険なことをして俺の身に何かあったら、俺が支えている人達や俺を心配してくれている人達の気持ちはどうなるというのか。そう考えると、自己実験などする気には到底なれない。まぁ、俺が死んだ後の死体くらいなら好きにしてくれていい。実際この本でも、新婚2週間で事故死して奥さんも後追い自殺した科学者の話が出てくる。そういうリスクを一度でも認識してしまうと、俺はこんな風には生きられない俗物だなと思う。

要するにあれだ。頭おかしいんじゃないのかコイツら?