読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

馬鹿の独り言

物忘れの酷い俺のためだけのブログ

【雑記】ペルソナ5をクリアしたらうつうつした話

雑記

f:id:terayuu:20161031230144p:plain

persona5.jp

理性は情念の奴隷であり 、またそれだけのものであるべきであって 、理性は情念に仕え 、従う以外になんらかの役目をあえて望むことはけっしてできないのである。

人性論 (中公クラシックス)より引用

 

先日、ペルソナ5をクリアした。

いやー、めっちゃおもろかったっす。1週目の記録は4股でした。2週目は本命の春ちゃん一筋でいくつもりなので、あんな酷い修羅場にはもう陥りません。やっぱ2次元って良いよなぁ。俺は、おっぱいデカい美少女が大好きだ。

今作は「大衆の認知」がテーマだった。ペルソナ4よりも話が大きくなってて、俺も怪盗やりたくなった。

今作のペルソナは「反逆の意志」の表象だったけど、じゃあ何に反逆すんのっていうと、ザックリ言えば「権力」だ。双葉や新島冴は特殊な事例として

鴨志田、班目、金城、獅童

の4人はいわゆる「権力者」で、そいつらに人生を食い荒らされそうになってる若者が反逆をするというのが今作の大筋だった。しかし双葉の件から徐々に怪盗が世間に認知されていった結果、怪盗団は、ついには大衆そのものを相手にオタカラを盗むことになる。

そもそも考えてみれば、権力というのは大衆の迎合が無ければ存在し得ない。権力者本人の実績や人格は多種多様でも、その権力者を承認する大衆の存在があってこその権力というのは、どんな場合でも共通だ。それに、大衆には権力に服従し、考えることを止めて楽になりたがる性質がある。

自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版

 

今作で登場した4人の権力者も、大衆の迎合に支えられていたという原理を考えれば、最初からラスボスは大衆そのものなのではないかと推察するのは容易い。容易いと言いつつ、俺は何も考えずにプレイしてたけどな。

こんな下地があるからこそ、ラスボスが大衆の願いを叶える「聖杯」というのはストーリーとして非常に良い着地点だったと思うし、聖杯に至る道中を天使が守っているのも良い設定だった。神や天使といった神聖とされる存在も、大衆の信仰が無ければ存在し得ないという点については権力と同じ。何より、女神転生シリーズの頃から「神」とか「悪魔」を扱ってきたペルソナシリーズにおいて、こんな相応しいラスボスは中々いないんじゃなかろうか。そういった意味で、今作はペルソナシリーズの持つ特徴によく合致した、ペルソナらしい作品だったと俺は思っている。

それにしても、イゴールについてはマジでビビった。中の人がお亡くなりになられたという事情を逆手に取られて、完全に油断していた。テンション上がりましたよあれは。

さて

「大衆の認知」とか「群集心理」とか、そういうので最近似たような話があったなと思って、思い出した。

ガッチャマンクラウズだ。

www.ntv.co.jp

ガッチャマンクラウズのテーマの1つに「世の中の見方」があった。1期は、周囲を見ずに自分の世界に引き篭もって世の中クソだと思っている人間を、ベルクカッツェが煽って破滅に導くという物語だった。人間はつい外面にばかり目が行ってしまったり、自分の考えに凝り固まって素直に物事が認識できなくなりがちである。余裕が無い奴はダメだ。この辺りは、最初の方から徹底して示されている。特に印象的だったのは、はじめちゃんのコラージュコミュニティのオフ会で、市長や消防署長が紹介されたシーンだ。

f:id:terayuu:20161031222856j:plain

市長は「清水伸男」、消防署長は「桑原隆男」という名前がある。しかしどうだろう、俺はこの記事を書く瞬間まで、この2人のことは「市長」「消防署長」と記憶していた。ペルソナ5に擬えると、「市長」というペルソナの中に「清水伸男」というシャドウがいるわけだ。はじめちゃんは最初からシャドウに目を向けていたけど、清音はペルソナの方に目を向けてしまっている。ペルソナ5では、「日本を導く俊英の政治家」というペルソナの中に「獅童正義」というシャドウがいた。世間一般の人はどちらに目が行きがちかといえば、圧倒的にペルソナの方だろう。身近な例として、自分の会社の重役とかゼミの教授とかを、ペルソナを無視してその人間性を見抜くことができるかって話だ。けっこう難しいと思う。そういう点で、はじめちゃんは正に天才だ。ベルクカッツェに対しても同じ態度で接するし、それが1期の終着点になる。

2期において、つばさちゃんが バードゴーできなかった理由も想像できる。

f:id:terayuu:20161031223015j:plain

「変身する」というのは、すごくザックリ言えば「主体性を発揮する」ということだ。2期でのつばさちゃんは、世間の空気に流されてゲルサドラを盲信し、主体性を発揮することができなかった。しかし、爺ちゃんに戦争の話とかを聞いて不器用ながらも自分の意見を形成するようになってからというもの、上手くバードゴーできるようになった。

大衆が世間を正しく認知するようになるのは、怪盗団やガッチャマンが奮闘した影響が大きい。はじめちゃんが一芝居打ったり怪盗団がオタカラを盗ったりした結果、はじめて大衆は自分達の空気が間違っていることに気付く。

では大衆は常に愚かなのかといえば、そうとも限らないだろうというのがガッチャマンクラウズのメッセージだった。ペルソナ5では、大衆の認知であるメメントスは醜く歪んでいた。ガッチャマンクラウズにおいても、大衆は常に愚かな存在として描かれる。オルテガによると、大衆とは以下のように定義されるらしい。

大衆とは 、善い意味でも悪い意味でも 、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず 、自分は 「すべての人 」と同じであると感じ 、そのことに苦痛を覚えるどころか 、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである 。

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)より引用

この定義は、いわば「心理的大衆」とでも言う状態である。つまり物理的に大衆である必要は無く、このような心理のことを指して「大衆」と述べている。

他人と同一であることに喜びを見出すという気持ちは、多かれ少なかれ誰にでもあるだろう。程度の問題だとは思うけど、他人と同一であることに喜びを感じるというのは、突出したくないという気持ちとセットだ。単に現在を楽しむためなら、そういう気持ちはとても大切だと思う。しかし何か打破すべき現状に立ち向かうためには、同一であることは最悪と言っていい。

大衆が力を発揮して驚くべき成果を上げる事例というのは、確かにある。いわゆる「集合知」といわれる分野の研究は、少し前にブームだった。

群衆の智慧 (角川EPUB選書)

群衆の智慧 (角川EPUB選書)

 

しかし、集合知が有効なのは、非常に限定的な条件が揃った時のみだとされている。 ガッチャマンクラウズでは、はじめちゃんがマジに命賭けた結果、ようやく大衆はゲルサドラへの盲信から離れることができた。ペルソナ5では怪盗団に乗っかるだけのクソみたいな大衆しか描かれなかったけどな。つまり結局のところ、個人がそれぞれ主体性を発揮、とまでは言わずとも、せめて自分の考えを形成できる程度には主体的に生きることが求められるようだ。これはどんな条件でも変わらない原則だと思う。

どっちにしろ俺は、こんなことをくどくどと考えている時点で、大衆には属さないのかもしれない。

うつうつしてる場合じゃないです。

 

春ちゃんが素敵すぎて俺もキモいって言われたくなりました

f:id:terayuu:20161031223506p:plain

トレヴァー・ノートン/世にも奇妙な人体実験の歴史

科学
世にも奇妙な人体実験の歴史

世にも奇妙な人体実験の歴史

 

 

マッドサイエンティスト

と聞くと、多くの人が一番最初に思い浮かべるのは「フランケンシュタイン」だと思う。

フランケンシュタイン (新潮文庫)

フランケンシュタイン (新潮文庫)

 

神の領域を侵した人間の苦悩と、徐々に人間の心を獲得していく醜い怪物の交流を描いたハートフルヒューマンドラマである。

あれは、墓場から掘り起こした死体を主な材料としていた。フランケンシュタインの書かれた18世紀のイギリスでは、医学実験のために墓場から新鮮な死体を盗掘することが盛んだった。当時の読者には、墓場の傍で人体実験に励むフランケンシュタインの姿は、非常にリアリティのある情景だったんじゃなかろうか。

そもそもマッドサイエンティストとは、狂気に駆られて人間の倫理を外れた実験を行う変態を指す言葉だ。「フランケンシュタイン」の主人公であるヴィクター・フランケンシュタインは、正にこの類である(もっとも、ヴィクターはその狂気から醒めてしまうけども)。この本に出てくる人体実験を行うマッドサイエンティスト達も、人間を実験台として普通はやらないような変態行為を生涯繰り返した。

梅毒と淋病に同時に罹ってみる

深海と成層圏のどっちにも行って臨死体験してみる

一酸化炭素中毒になってみる

読んでいる途中で思わず顔を顰めることも少なくなかった。

俺達が思い浮かべるマッドサイエンティストというと、何やら怪しげな実験をして世間に迷惑をかける奴らというイメージがある。しかし、この本に出てきた奴らは違った。確かに彼らは紛う事無きマッドサイエンティストだ。やってることは狂気の沙汰だし、想像するだけで吐き気がするようなことばかりやっている。

ファースは嘔吐物をとろ火で煮てその蒸気を吸入した。吐き気のためについに我慢できなくなるまで、数時間にわたって吸入しつづけたのである。患者の嘔吐物を犬に注射してみたところ、その犬はわずか数分で死んでしまった。にもかかわらず、彼は自分の血管に嘔吐物を注射し、両腕を深く切開してその傷口にも注入した。体に患者の血液、汗、尿を塗りつけ、患者の唾液、血液、嘔吐物を飲んだ。

世にも奇妙な人体実験の歴史より引用

しかし、この本に出てくる奴らの殆どは、我々のイメージとはある一点で異なっている。それは、実験台を自分自身にするということだ。

戦争で捕まえてきた捕虜だとか死体を実験台にするというのなら、まだ気持ちはわかる。でもいったいどんな人生を送ったら、自分で1時間以上も過呼吸を繰り返して二酸化炭素を体から出し切ることで、痙攣の世界記録を打ち立てようなどと思うのか。

この本に出てくる人物達の中で、現在まで一般に広く知られている人物は非常に少ない。俺が知っていたのは

エドワード・ジェンナー

キュリー夫妻

ジョン・ハンター

バリー・マーシャル

くらいなものだった。しかし、これらの人物がほんの一部に過ぎないほどに、この本では多くの偉大な自己実験者が紹介されている。彼らの多くはゲロを煮詰めて飲んでみたり大西洋をゴムボートだけで渡ってみたり人体が耐えられるGの限界に挑戦しようなどという、極めて頭のおかしい奴等だ。偶に死んだりする。彼らをそんな行動に駆り立てたものはなんだったのか、俺にはわからない。彼らは、人類に色褪せることのない貢献を果たした偉大な人物達だ。自らの労苦を厭わず社会に貢献する。そういう人物こそ、世間一般では大いに賞賛されている。そんな先駆者達のおかげで我々の日々の生活が成り立っているという事実を見れば、当然の賞賛だろう。

ただその一方で、俺は絶対にそんな風にはなれないと思う。俺は疲れるのは嫌だしめんどくさいのは嫌だし、できるだけベッドでゴロゴロしていたい。なにより、そんな危険なことをして俺の身に何かあったら、俺が支えている人達や俺を心配してくれている人達の気持ちはどうなるというのか。そう考えると、自己実験などする気には到底なれない。まぁ、俺が死んだ後の死体くらいなら好きにしてくれていい。実際この本でも、新婚2週間で事故死して奥さんも後追い自殺した科学者の話が出てくる。そういうリスクを一度でも認識してしまうと、俺はこんな風には生きられない俗物だなと思う。

要するにあれだ。頭おかしいんじゃないのかコイツら? 

「言の葉の庭」を観たり読んだりした話

その他

 

 

俺は、新海誠恐怖症だった。

秒速5センチメートル」というクソ映画を観て深く傷付いてからというもの、新海誠作品を避けていた。しかし、以前「君の名は。」を観たことによってそのトラウマは随分と和らいだ。そこで「そういやまだ観てねーな」と思ったので観てみた。

新海誠作品は、考えたら負けだ。感じるんだ。

そもそもおかしいじゃないか。高校に入ってから日が浅いとはいえ、自分の学校の若い女性教師がそんな酷い事態に陥っていたら、全く知らないのは有り得ないだろ。ぼっち度高めとはいえ友達が当然のように知っていたのに、ご都合主義にも程があんだろ。それに15のガキがあんな綺麗なお姉さんに擦り寄られて「惹かれていく…」なんて生易しい感情で終わるわけねーだろインポなのか?ホモなのか?

なんつーか、意識高い系な雰囲気が伝わってきた。この作品を観た後だと「君の名は。」が如何に大衆向けに作られたマイルドな作品なのかということがよくわかる。リアルに見せようとしているけれど、登場人物達にリアリティが全く無かった。凝った風景を描くために仕方なくキャラクターを置いただけのような印象を受けた。

舞台となった新宿御苑には、何度か行ったことがある。東屋もよく知ってる。新宿御苑は、確かに良いところだと思う。

全体的には、この程度の感想しか浮かばないアニメだった。あぁーはいはい絵が綺麗ねぇ、くらいなもんだ。つまり、そこまで面白くはなかった。

ここまでが映画だけの感想。

俺はその後、小説の方も読んだ。Amazonのセールで300円くらいになってたから、ちょっくら読んでみるかと思ったのだ。

小説の方は、映画よりも格段に良かった。映画を作ってから新海誠が自分自身でノベライズしたらしいけど、映画よりも描写が大きくて、登場人物がちゃんと人物として成立しているような気がした。映画では、雪野先生はなんか去り際に短歌口遊むイタい女だったし、孝雄は靴オタクのインポだった。小説では映像が無い分、心理描写などが非常に充実していたので、俺でも理解することができた。

まず、時間軸が大幅に拡張されている。始点は母さんの若い頃から始まり、終点は本編の5年後まである。メインはその中でも映画本編の時間で綴られるものの、それだけ時間に幅を持たせているだけあって、登場人物の心理描写に余裕がある。そしてあとがきにも書いてあったことだが、語り手を映画よりも倍以上に増やしている。映画ではモブキャラに近かったような奴らがどういう背景を持っているのかを知る事ができたので、映画の受け取り方も、小説を読む前と後では全く違ったものになると思う。特に、高雄の兄貴である翔太や雪野先生を退職に追い込んだ相澤祥子とかは、小説を読まないと、ストーリーに波紋を広げるためだけに配置された無粋なキャラクターでしかない。

言の葉の庭」という作品を総合的に判断する上で、小説版は絶対に欠かせないだろう。映画だけでは情報が乏しすぎて、ただの意識高い系で終わってしまう。従って俺としては、まず小説を読んでから映画を見るべきだと判断する。

とはいえ、こんなやり方は卑怯なのではないかと思わなくもない。映画の方は、つまらない作品だと俺は思った。お得意の、絵が綺麗なだけで中身の無いアニメだった。それが、小説を読むことによって全く違って見える。小説を読んだ後に俺はもう一度映画を観たけど、やはり登場人物達の見え方が違って、初見と比べて格段に中身のある映画に感じられた。映画であるならば映画単体で内容充実させるべきではないのか、という立場に立つなら、映画と小説を併せないとダメなどというのは、映画単体では駄作と言われても仕方がないと思う。

まぁ別にいいんだけどね。作品は、作者が好きに作って好きに表現するものなのだから、外野の俺がとやかく言うようなことではないのだし。

とはいえ、やはりあれだ。

新海誠作品は、考えたら負けだ。

↓関連記事

terayuu-hitorigoto.hatenablog.jp